昭和53年2月21日 朝の御理解

御理解第81節
氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後にもどるぞ。



 ここんところ毎日のように、ちょうど研修の始まる頃にお参りをしてくる方があります。あれは何処か、杷木の市川さんのお導きですか、朝倉郡の方からほとんど毎日のように参ってみえます。昨日研修が終わるのを一緒に頂きながら、ここへ出てみえて、先生この頃は合楽にお参りしてくるとが楽ゅうなりましたとこう言われる。
私は信心も楽しい事になり、有難い事になり、本当に勿体無いという事になって参りますと、もうブレーキはいらないと思うですね。もう信心はいよいよ進んでいくばかり。
十里の坂を九里半登っても安心してはならぬとただ信心がしるしいものである、きついものであると、人間ですからやはり緩みが来ますね。そしてやれおかげでも段々頂いて、なら生活費もあんまり困らん様になり、子供達の出来も良い、おかげで家もきれいに建ったというようになりますとね、あのつい信心が緩んで後戻りをいたします。これからが本当の信心だ。これからが本当の徳を受けるんだという事になって、おかげだけで終始したり、いやおかげをまた元に戻したりといった事になっては本当につまらぬ話ですからね。
 その方がなら信心が楽しゅうなった。だからそのどういう事が楽しゅうなったかというと、研修の時間に見えますから金光様の信心の言うならば深さ、広さね、そして一々道理に基づいた言うなら天地の道理に基づいたお話。天地の御恩徳に神恩報謝の日々を過ごさねばならない、それが真の人間の生き方だ、生き道だというような事が毎日説かれる訳ですよね。
その方は大変見ただけでもまあ人物だろうし、たとえば村なら村、町なら町でも相当人徳を持った方だろうと思われる様な方です。なんち言よったね、あの人の名前。(元町さん、元町さんとの声あり)元町さんち言うんです。息子さん達が今度二人大学を受験される。浪人しとった兄さんと弟と、というわけですね。そんな事から大体お導きを頂かれたのですけども。この頃はもうその大学受験の事の願いではなくて、信心の分かってくる事が楽しいというように変わっていかれる。しかもあの研修の時は、いうならここの先生方ばかりですから、ちったあ私の話しも難しいし、厳しい面もお話になって出て来るんですけどもそれが楽しゅうなったとこういう。
 昨日は教典とか、明日からはノートを持って来てね、先生方の話をあの書き留めたいというて昨日帰られましたんですけども、言うならば教聴の楽しさということになりますね、教えを頂く事の楽しさね。
えぇ、落語を聞いたり、漫才を聞いたりやはりおもしろい。けどもいくら楽しいからというても毎日毎日聞いとってもそんなもんじゃない。そしてそれは別になら聞いたからというて役に立つ事もないけれども、信心の話が楽しゅうなる様な頂き方をしたらもう生活に響いてくる。おかげに響いてくるね。日々が言うならば有難い日々が出来てくるようになる。話を頂いて、話が楽しゅうなってくるね。だからそういう調子ばかりで行くものではないです。
それはそうですね。一つの願いを持って、三日五日とお参りをされると必ず皆さんが、はあ信心ちゃ有難いもんじゃあるなあと言うその、それこそ涙の流れるほど有難いものに触れられるですね皆がね、言うなら喜びの芽が出だすんです。けれども何かに一寸ぶつかると、もうその喜び芽を無惨にも摘み取ってしまうような結果になる人も多いですけれどもね。もう一カ月もその上にもなりましょうか、その方、元町さんが参られるようになって、そして段々しかも合楽の信心のまあギリギリの所がいつも話される、説かれる訳ですけれども、それが楽しゅうなって来たとね、言うなら本当の信心、本当のものを感じます。
 それからいよいよ本当なものになるという事は、今度は教えがいよいよ血になり、身になってくるという事だとね。
そしておかげを頂く事の有難さね、本当に勿体無いと言うような、いわゆる有難い、勿体無いの生活が出来るようになるね。それから言うなら昨日あたり、おとといから昨日あたりに頂くように、神は向こう倍力の徳を授けると仰せられるが、どういう信心をさせて頂いたらお徳が受けられるかというような、しかもその徳はあの世にも持ってけ、この世に残しておけるといわれるのであるから、そういうお徳を頂く事のための信心、精進が出来てくる様になると、言うなれば実意。いよいよ執念にも似たような神様へ向かう、いよいよお徳を受けさせてもらう、神様へ本当の向かい方が分かってくる様になったら、もいよいよ大丈夫だと思います。
 昨日は菊栄会でしたが、まだここへ出て参りましてもまだ話が続いとりました。いつもは私は菊栄会に入りませんけれども、まあ菊栄会の方達には幸か不幸か分からんけど、襖がこれ位ばっかり開いとりました。だからこう覗いたらまだ、もう帰りかたげるような感じでした。けど私が入ったもんだからまた新たになり、丁度一時半位ありましたでしょうか、お話をまあ聞いてもらう事になったんですね。そして例えば菊栄会といえばなら合楽では一番まあ言うならば皆が言うならば菊栄会に入りたいといったような願いを持っておるけれどもなかなか菊栄会に入られんと言うように、一つの羨望の的にある会である。
だからその会員の一人一人がです、本当の信心を身に付けて人にでも伝えていける様にならにゃいけんのに、ならこの頃中近畿から見えて、なら合楽の信心はと問われ、または親先生をなんと見るかといったような時でも自分の体験談どん話したごたるふうで合楽の信心とはこうだ、親先生を私はかく見ると言ったような的確な答えがなかったように私は聞き受けたね。だから結局内容には持っておってもお話が出来とらんね。
 そこでね、少し言うならばもう本当に菊栄会の皆さんが一人一人がです、皆がそうなんですけれども、合楽の信心とはと言うならばまあ皆に分かるような話の一つも出来るように、話を聞いて助かるということは話をしても又助かると言うことにもなるね。だからどういうことをたとえば話すかと言うとね、話さねばならないかと言うとね、合楽に行けばですね、必ず言うならば宗教的な疑問と言うものが必ず解決すると。信心には非常に様々な言うなら神様のござるかござらんかそら分らない人があるし、ござると言うても半信半疑。その教理ということにでもなるといよいよ分らんことばっかりね。いや信心を頂いとってもそこに疑問が出てくる。その疑問の解決を正確に与えれるというか、受けられるという信心。だからめいめいが受けてそれを答えさしてもらえるという信心。
 例えばお道の信心させて頂いておってもね、教えをいくら頂いても本当におかげが受けられる頂き方。本当にお徳が受けられる頂き方。もう合楽では日勝り月勝り年勝りのおかげを頂く事の為にもうこれは絶対だといわれるもう家業の行を本気で行とすることですよとね、それで日勝りにならんなら、月勝りにならんなら、まだ家業の行が行になっていない証拠なんだね。信心すなわち家業だというところまでを極めていくその手掛かりを教えて頂くのですから、もうおかげ頂きたいと思うなら合楽に来なさい、必ず日勝り月勝りのおかげが頂けると例えば話せたらどういうことになるでしょうかね。
 おかげを願わない者は誰もありません。そして本当に御神徳が受けられるならと思うけれども御神徳などというものはとてもとても普通の者で頂けるものじゃないと言うなら半ば諦めている人達がです、こういう信心になればお徳が受けられるとね。
昨日あたりの御理解を説明をしたらもう本当にお徳を頂きたい人ならばもう飛びついてくるでしょうね。成程自分達がおかげを受けてもお徳が受けられなかった筈だということも分かるしね、今日の御理解で言うならここもうひと、一息と言うところの信心がね出来ないところにいつも堂々まわりばっかりしておるね。
 昨日、末永先生が事を佐田先生が前日の正奉仕の時の模様を書いとりましたね。修行生、皆で朝の二時半まで飲んどった。だからまあ言うならぐでん、ぐでんね。皆が起きれてなかった。何人かが起きて来とるだけだった。そういう中に自分は正奉仕であったから前の晩に神様そのことをしっかりお願いして休ませて頂いたら、梅山君が起こしてくれたからおかげでお出ましに間におうた。そのさなりを聞いてから、末永先生がもうそれこそもうパパッと飛び起きてお広前に走っていかれるその見事さと言うものは恐れ入ったと言うことが書いてあったね。他の者はどうかちゅうと、もうゆうべ遅かったつやら、飲み過ぎとるとやら、こげんきつかとは分っとるけんでちゅうごたる、もう初めから寝る時から明日、朝の御祈念はもうご無礼せんならんごたる気持ちで寝とったかも分からないね。夜中、二時半じゃから。だからそげん時もう今日は寝たら起きれんならばなぜそのまま起きとかんかちね。
 昨日私がここで修行、修行生の分際でと私が言ったでしょう、あれが昨日研修の時に問題になったんですね。今日のその親先生が修行生の分際でと言われたのがえらいまあ響いたとこういうわけなんです。それがね私が気がよーわかもんじゃから一人一人に私が言いきらん。本当は修行生の分際でと一人一人に言いたい事もあるけれども中々言いきらん。これは私は家内にでも言いきらんです。それで朝御飯頂く時とかなんか皆おる時に家内に、今は言いません全然。昔はそうでした。家内が言いよった。誰でんおんなさる時に言いなさらんな私一人言うちくなさりゃよかじゃんのち言いよりました。けどそれが一人の時に言やきらんとじゃんね。心が気が弱い。
だから昨日は私のなら日頃の事、丁度幸いで修行生の分際で何しげにここに来とるのかとね。朝晩の勤めにもそれこそ出られんぐらいの事で、今日あたりの御理解を頂いとったら言うなら根性であり、実意であり、執念なんだ。ごそごそ這うちからでも例えば出てくる位の気持ちがなからにゃいけん。そりゃ私共も若い時には随分飲みもしたから、それこそもう朝の起きれんごたる時もあったけれども、これはもう絶対のものであったから、久保山先生はもうそげん時にちゃんと洗面器ば用意して二階さ持って来よんなさった。そして私ば起こしてから頭ば洗面器にこうやってつけとく一時ばっかり、というようにしてやはり勤めたもんだ、出たもんだとね。なにもかにもとは言わん。例えば朝の御祈念に、夜の御祈念に、例えば修行生のそれこそ分際で出られんてんなんてんという事があるかとね。
五年で卒業させて頂くと神様の計算があったのが六年になり七年になり八年になり十年になり、そして又落第するなら、とうとう一生ずうっと合楽におらならんということになったらどうするかち、神様はねもうこの修行生は何年したらどこどこに布教にも出そうと思ってござる。この山いっちょ超えたならばもうまあ布教のお許しが出るに違いはない所まで行っとってそこで又失敗するもんだからね。
末永先生どんが南米布教という事を私がお知らせ頂いてから、あのこの方のあの何年間かというもの、あの修行ぶりという事をね、そりゃもう本当に目の詰まった修行しましたよ。だからやる時にはやあっというような修行させてもらわなければ、神は向かう倍力の徳は授けては下さらんと。例えば徳をほんとに受けたいという人が昨日の御理解を頂いたらもうそれこそもう飛びついてあの御理解を頂いただろう。
 昨日栄四郎が正奉仕でした。私が毎日その正奉仕、あの御用日誌を読ませてもらいます。いろいろずうっと書いとります。ただ所感の所にね今日の御理解を頂いて、もう一言もないと書いとった。本当に自分達もお徳を受けたい。その受けたい者がこういうだらしのない事で言うならばお徳の受けられるはずはない。もう今日の御理解を頂いて一言もないと言うとります。なら彼がやはりお徳を受けたいという思いは切に願っておるし、思っておるだろう。そして昨日の御理解を頂いて初めてこげな事ではお徳が受けられんと言うことになってきたわけ。そしたら今日はもう私がまあ洗顔しよる時間にやって来ましたね。
私は思うんですけれどもね、本当、もう昨日の御理解を頂いてもう一言もないと分かって、もうあくる日それをさっと実行する事が素晴らしいと思うです。そして又失敗するかも知れませんね、けれどもです、そういう失敗を例えば繰り返しながら本当なことへ一歩づつでも近づいていくという事が素晴らしいんです。
 例えば昨日の御理解を頂いて、ほんと成程一言もないというほどしに頂いておるならばですね、もう最高に頂いておるということになるのじゃないでしょうかね。
金光様の信心をすりゃ、おかげは受け徳受け勝といわれるけれども、いっちょん受け徳受け勝じゃなかね。頂いたり落としたり、頂いたり落としたり、そういうような例えばところに疑問を感じれるような人がもしあったならば、教祖様が嘘をいうてごじゃるとじゃろうかとまで思うような人が、だからやっぱ教祖様の御教えでもちっとオーバーに言うちゃる。そげなこっちゃない。教祖様の御教えの一つ一つを私共が実行さしてもらい、そのこういうおかげが受けられるという実証者にならなければならない。その実証者たらんとする願いがなからにゃいけん。
 それなら合楽の菊栄会というならばですね、言うならば最高の言うなら信心共励の会と自他ともにやっぱ許すほどしの人達がです、合楽の信心とは、親先生をなんと見るかとそれこそ、私は昨日テレビを見よったら中村芝翫と言うあの女形の名人が居ります。その子供さん達が十二と十四か、息子さん達と三人であのお父さんを何と見るかという質問に対して二人の子供が芝翫の全てをです、もうそれはこういう質問をするから勉強しとったに違いないけれどももう見事に芝翫の浮き彫りをしましたですよ。完璧な話をまだ十二と十四ですね。
なら合楽の信心とはもう菊栄会の人達がです、それこそ合楽の信心を浮き彫りにし、親先生とはこういう人だという事をです、親先生を目の当たりに見たり感じたりするくらいにです、私は説けなかったらおかしいと思う。そりけ知らんじゃない。知っとる。合楽の信心の有難い事も、親先生が素晴らしい事も知ってる。これは私の口からおかしい事ですけどもね分かりやすく言うためにそういうわけですけれどもです、そんならそこの素晴らしいとこを、どこがどう素晴らしいかという事をです説明が出来ないじゃないか。そして日頃のおかげ話しどんしとるというごたる事でどうするかと私がね。少し勉強せにゃいかんと言うて昨日はその皆で勉強した訳でしたね。
 おかげは受け徳受け勝と言われるが確かにおかげは受け徳受け勝ですよ。この御教えを頂いた時に、私の信心がもう一転機をもたらした。そして成程おかげと受けられる事実をね証が立てられるようになった。その話をさせて頂かなければいけない。
おかげは受け徳受け勝と言われるがね、魚釣る人見ておる人という御理解を頂いた事があるがもう本当にその通りですよとね、おかげは受け徳受け勝と言われるけれども、ひとつも受け徳でもなければ受け勝でもないね。けどもこの御教えを頂いて御教えの深さが分かった。成程、人がおかげを頂いとるとをじっとこう見とるだけじゃおかげの頂けるはずはなか。本当におかげが頂きたいならば、本当に魚が欲しいならばまず魚釣り竿ば用意しろ。餌も用意しろ。そして川の中に入っていってこう釣る言うならばね事をしなかったらです、だから釣り上げた分だけは自分の物。成程、受け勝だな。それを今までは自分達は、魚釣る人をただ見ておっただけ。親先生がどんどん釣り上げなさるとばただ見とっただけだったね。自分達も釣りたいならばほんとに言わば釣る姿勢を作らなければいけない事が分かって、おかげを頂いてこの頃は、自分でも釣り上げられるようになったという話でなからなければいけん。
そういうところからですね信心な、もう例えば今二つ三つの御教えを聞いて頂いたが、その二つ三つのその御教えを皆さんが本当に自分のものにして行じていかれたらですね、例えばねその信心が後ひざりする事がないだろうと思う。いよいよ楽しいもの、有難いもの、しかも勿体無いという心の状態はいよいよ開けてくるね。そこには天地と共に言うならばリズムに乗った生活が出来るのですから後ひざりされるはずがない。
私は今日の御理解を皆さんが聞いて下さって、分かって頂いて、そうだと本当に分かられたらですね、もうそれで安心じゃという事になるのではないでしょうかね。
それで安心じゃという事はですね、まずお話を頂く事が楽しゅうならにゃいけん。毎日毎日が楽しゅうなりましたという信心、そしてそれを行じる事の手立てというものがですね、日勝り月勝りのおかげの頂ける事の為に、家業の行の言うならば研修というか、今日のは果たして行になっとっただろうかと、そして言うならば信心即ちもう家業であるというところにまで至った時にもう絶対の日勝り月勝り年勝りのおかげが受けられる。おかげだけじゃでけん。お徳を受けなければ、あの世にも持っけこの世にも残しておけるという事がだんだん分かってくるようになるとこれはひとつ本気で実意な信心をさしてもらわにゃならん。一つ信心に執念を燃やすという位な信心になって来る時に、もう必ずお徳が受けられるという事の信心が、例えば今日ね皆さんに聞いて頂いた、その信心が皆さんが本当にそうだと分かられたら、神様ももうこの氏子は大丈夫と安心なさるだろうと思うです。その安心が私共に返って来て、言うならばどのような場合であっても平生心を失わんですむね、油断するような事のないね、登り切って向こうへ下りたら安心じゃとある、その神様に安心して頂けれると同時に自分達も安心のいよいよ有難い、勿体無い生活が出来るという事になるのじゃないでしょうかね。どうぞ。